May 27, 2020

染色の化学、その基本

   染料が繊維に染着するメカニックには、染料と繊維の化学結合で説明されています。染料と繊維の種類により、ファンデルワールス結合、水素結合、イオン結合、共有結合があり、これらの組み合せで結合していると考えられています。

    ファンデルワールス力は電荷を持たない中性の原子や分子の結合力の総称のことを言い、結合の強さは一番弱い結合です。水素結合とは水分子の酸素(O)と水素(H)の間に部分電荷にもとずく静電気力がはたらいています。このような力を水素結合といいます。水素結合はファンデルワールス力よりも10倍程強いが、イオン結合や共有結合よりは遥かに弱い結合とされています。イオン結合は正電荷を持つ陽イオン(カチオン)と負電荷を持つ陰イオン(アニオン)の間の静電引力による化学結合で、イオン結晶が形成されます。共有結合は原子同士で互いの電子を共有することによって生じる化学結合で結合は非常に強く安定した状態に成りま

 繊維と染料の組み合わせの種類


染色の種類








繊維の種類

植物繊維

セルロース系

綿、麻など

F+H

 

 

F+H

F+H

 

動物繊維

タンパク質系

羊毛、絹など

 

 

 

 

 


再生繊維

セルロース系

レーヨン

ポリノジック

F+H

 

 

F+H

F+H

 

半合成繊維

セルロース系

アセテート

トリアセテート

 

 

 

 

 

 

F+H


合成繊維

ポリアミド系

ナイロン

 

 

 

 

F+H

ポリエステル系

ポリエステル

 

 

 

 

 

F+H

ポリアクリロニトル系

アクリル

 

 

 

 

F+H

◎:多く使用されている  ○:使用されている  △:一部に使用されている

F:ファンデルワールス結合  H:水素結合  :イオン結合  共:共有結合

す。結合の強さは、ファンデルワースル<水素結合<イオン結合<共有結合の順に高くなります。

   具体的に和紙に彩色をする場合には、どの様な染料を使うかと言うと直接染料と顔料を使う場合が多いと考えられます。上図を参考にしてもらったらいいのですが、和紙は植物繊維ですから直接染料を多用されています。染料を水に溶かして繊維をその中に入れるだけで染めることが出来ます。問題は多少耐光堅牢度が低い染料があり、混色した場合には日光堅牢度が低下します。そのためにアワガミでは日光堅牢度の強いバット(スレン)染料を用いています。

   当社で行われている直接染料を用いた染色法と日光堅牢度を要求する場合に顔料とスレン染料を用いた方法を取っているのでその三法を詳解します。

 

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紙料染色作業上の注意

  ランプなどの光源から発せられた光は、紙などの物体を照らしたときにその物体の色相に影響を与えます。その光源の性質のことを演色性と言います。

   例えば、室内の蛍光灯下で見た服の色目が、室外の太陽光下で見た場合に色の違いに困惑した経験があろうと思います。蛍光灯の光の波長と自然光の太陽の波長が異なることにより起こります。色を数値的に表す場合、光源を指定しなければなりません。、国際照明委員会 (CIE) により定義された標準光源をD65とされています。D65とは "Daylight 6500 K" の略で、欧州の平均的な正午の光を想定して昼光光源とも呼ばれています。JIS Z 9112:2012では光源の性能を整理して使い方の正しい目安とするため、蛍光ランプの光色 (昼光色、昼白色 、白色、温白色 、電球色の5種類に分類)ごとに、普通形、演色A、演 色AA、演色AAAに区分され、演色評価数の最低値が決められています。 例えば、昼白色の蛍光ランプでは、演色性をそれ程重視しない普通形ランプの平均演色評価数Raの最低値は67と決められ、また高演色形に ついては最低値が75、86、95に3分類されて、それぞ れ演色A、演色AA、演色AAAとよばれています。ほぼ太陽光の色温度に対応している色評価用D65蛍光ランプ(演色AAA)下で色目の判断をする必要があります。

一般的には、色評価用D65蛍光ランプがない場合の対応として、CIEが設定したD65の設定基準は、欧州の正午の太陽光を想定していることから、晴天の北側の窓から入る昼間の光を利用して色評価するのが基準にされています。

 

和紙の紙料を染色する場合には、心得ておくべき注意点をあげると次のような点を上げることが出来る。

1)染色する色目によらず、紙料の白度を一定にすべきである。染色する前の紙料は、白く漂白されたものほど彩度が上がり、鮮やかになる。未漂白の紙料を染色すると濁色になる。

2)紙料は充分に洗浄すべきである。楮やその古紙などをアルカリ煮熟した場合や漂白した場合に残留アルカリや残留塩素に気を付ける必要がある。染色前には紙料をリトマス試験紙やトリジン液を使い残留がないか検査をするのが肝要です。

3)アルカリが残量した場合、サイズ(ロジンサイズ、硫酸バンド)をする場合に硫酸バンドがアルカリ側から酸性側になる為に使われ、染着に使われる硫酸バンドが足らなくなる場合がある。定着力が弱くなり、色目が淡くなったり色目が安定しないので注意が必要である。

4)サイズをする場合は、定着が良くなり濃色になりやすい。サイズをしない場合は、等量染料を入れても淡くなるので増量して使用するようになる。

5)複数の染料を使う場合には加温して溶解すること、染料により溶解に時間差がある場合があるので注意すること。

6)ビーターなどに投入する際には、溶解された染液を出来るだけ希釈して、全体に均等に混ざるように徐々に投入する。

7)紙料は叩解されたものに染液を加えて染色する。

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February 08, 2020

漉き返し、宿紙

日本での製紙の始まりは、弥生式文化から隋の律令制度を参考にして国造りを始めた聖徳太子の活躍した頃の、図書寮の管轄下にあった紙屋院から始まりました。地方での製紙の伝搬は、地方行政の拡充に伴い各地に国府を配置することにより、国府政庁が使用する紙のために、その近隣に製紙場が開かれたと考えられます。当然、紙は高価なものであり一般では使われる用途もなく、主に行政官庁で使われ律令が整備された飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われ、地方から中央への書き付けが正倉院に残されています。今でも、断ち紙を再生して、10%位を漉き返しと称して混抄したりします。経済的な理由よりも、丹精込めて漉きあげた紙の一部でも大切にするという心情からそうさせるように思うのは今も昔も変わらないように思います。そのような痕跡を正倉院文書を調査した寿岳文章は「日本の紙」の中に書き残しています(p79)。

平安期も末期ごろになると、心情的か宗教的なものであったのか、亡き人の面影を忍ばせる書き付けなどを漉き返し、阿弥陀経などを書写して冥福を祈ったとされています。その漉き返した紙を、旧や久の意味を持つ「宿」から宿紙と呼ばれていましたが、古紙を漉き返すために墨が充分に脱墨出来ないために薄墨色をしているので薄墨紙または水雲紙とも呼んでいました。墨に含まれる膠が顔料である墨を繊維に固着するためにアルカリで煮熟しても脱落し難く、漂白もできないからして墨色が残ります。江戸の大火の折に、大店では緊急避難的に店の大福帳を庭先の井戸に投げ入れたと聞きます。楮本来の耐水性の特徴を理解した行為であると共に墨が繊維に定着した場合には、容易に滲み脱落しないと言う性質を理解した行為と言えます。裏表に墨で書かれた古紙を再生しようとしたときの苦労が伺われます。

 その古紙を使い、朝廷においては不要な書類の再利用のために紙屋院で漉き返しがおこなわれました。当然充分な脱墨は出来ず薄墨色をしています。この紙を紙屋紙と呼ばれ、朝廷では案文などに使われるようになりましたが、いつの間にかこの紙に直接綸旨を書くようになり、慣例化され、鎌倉の時代以降に「薄墨の綸旨」として残されています。西洞院川のほとりで「西洞院紙」として宿紙や鼻紙などが幕末ごろまで漉かれていました。 

降ること、江戸の元禄の頃は庶民の再生文化が花開いていました。紙関係に特筆すれば、和傘の張り替え、提灯の張り替え、紙屑買いや紙屑拾いという職業がありました。今で言う古紙回収業ですが、古紙に限らず不用品を買い取ったようです。古典落語の演目に紙屑屋と言うのがあり、勘当された若旦那が紙屑屋で奉公をすると言う話で、職業として成り立っていたようです。江戸では漉き返し紙を「浅草紙」と呼ばれていました。浅草三谷界隈と言われていますが、三谷堀の吉原大門に近いところに紙洗橋の橋台が残されています。当時、この界隈で浅草紙を作っていた名残でしょうか。また、千束の花園公園の先に、鷲神社があり、阿波忌部族の祭神である天日鷲の命を祀っていることから製紙の地であったことが伺えます。 

京の「西洞院紙」についで著名なのが大坂の「湊紙」です。漉き返しの紙には間違いないのですが、濃い紺色とか紫の色が染色されて襖の下張りや茶室の腰張りに使われることが多々あります。大阪の堺の湊村で漉き始められたと言われています。利久に縁のある紙かもしれません。

一般的に、古紙や損紙の好き返しですので、高級な紙とは言えません。損紙を使った再生法として、庶民的な用途としては、平安時代に中国から伝わった張り子の技法を使った郷土玩具として今に伝わっています。損紙をそのまま貼って一巻張りにする方法や漉き返して厚紙を作り、だるま紙呼ばれてだるまの木型に貼って張り子にし、顔料を塗りだるまに仕上げました。他方、色紙短冊の芯紙に使われ、安価なものは「落とし紙」(トイレットペーパー)などに使われました。漉き返しは厚紙を使用する用途に使われていたようです。

当地でも、昭和40年ごろまで古新聞を使いシャツの襟芯を空いている紙漉場がありました。襟芯以前は色紙の台紙や書籍の表紙にも使われていたと聞いています。030202

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November 06, 2019

和紙の藍染め方

始めに藍の機嫌を伺います。紙片を藍がめの縁につけて染色します。金茶色から藍色に変化する状態を観察して、染液の状態を測ります。十分に還元されているか?

 

耐水加工をしましても紙ですから、布を扱うように捌いたり、搾ったりは出来ません。そのために何点か工夫が要ります。まずはじめに染色槽ですが、伝統的な藍甕は使わず、紙染め専用に作られたステンレスのタンクを使います。布用に準備された藍甕は、が沈殿しています。紙染めの場合は、藍甕から藍の上澄み液だけを移動して、の沈殿物のない状態を作ります。そうしないと紙がにつかえて、折れ曲りムラ染めになったり、紙を汚泥で汚します。

 

【無地染めの場合】

桟木で和紙の上部を挟みます。挟む方法は色々と工夫して考えられますが、私どもはクリップで数カ所挟んで止めます。紙の下部にも重しのために数カ所クリップを止めます。

紙の長さだけの水槽を準備して、必ず紙を水に浸して馴染ませてください。そして、静かに持ち上げて、しばらく水を切ります。次に還元された藍の染液に漬けます。紙が重なっていますと色むらが出来ますので、等間隔に並べてくっ着かない工夫が必要です。くっ着けば静かに分けてやります。Img_01667 Img_05056 Img_04338 

 

漬けてから約5分で引き上げます。見る見る内に酸化して、黄緑色が青色に変化してゆきます。空気中で3分~5分位酸化させます。これを水で洗いますときれいに冴えた青色になります。この工程を好みの色に成るまで繰り返します。色が決まりましたら途中の水洗いは省略しても染まります。ただ、この作業も藍の染液の中で数分間和紙を静置している状態が続きます。我々の場合は、滑車を利用して藍の染液の中に上下するような工夫をしています。

 

最後の水洗いは充分にして下さい。手荒に扱いますと破れますので御注意下さい。藍のすくもには、染料分が3%位しか含まれておりませんので、紺色になるまでには何回も繰返して染めないと濃い色になりません。

 

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藍の蒅(すくも)作り

作りは堆肥の作り方と同じで好気性発酵のメカニズムです。有機物を好気性の微生物で分解させます。適量の水を加えることにより、発酵が進み、その発酵過程で分解熱が60から70℃まで昇温したり、未熟生の過程ではアンモニア臭を発します。適時にを攪拌して酸素を補充すると有機物の分解が進み、の嵩が減少して行きます。

藍の茎には染料分がないので、小さく切って乾燥し風で茎と葉を吹分けます。葉の部分を集めて発酵させるの ですが、水加減や発酵温度の加減は藍師の腕自慢になっているようです。目的は容積を小さくし、藍の含有量を高め、染液を作りやすくする事だと思います。

 

 

【すくも作りの手順】 

日本の藍は、タデアイの葉を、3ヶ月ほどかけて発酵させて、堆肥状の「すくも」にすることで作られている。現在徳島で実際に行われている過程はだいたい次のようである。

1) 葉を刈り取り、1cm程度に刻む。

2) 扇風機の風により、茎と葉に分ける。

3) 乾燥した葉は、土間のある建物の中で発酵させ、「すくも」と呼ばれる染料にする。 その場所は、寝床と呼ばれる。

4) 発酵は100日間ほどかかるが、その間、3-4日ごとに水をやり、切り返しと呼ばれる 混ぜ合わす作業を行う。すくもを作る人のことを「藍師」と呼ぶが、すくも作りで重要な のは、与える水の量と発酵の温度である。

5) 切り返しを行ったあと、保温をする必要があれば、むしろをかけておく。

6) できあがったすくもは、俵につめて、全国の染色家のもとへ発送する。

 

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阿波藍の歴史

 阿波藍がいつ頃から生産されるようになったかは確証がありません。室町時代から流通していたことの記録はあるようですが、阿波の藍が盛んになったのは江戸期に入ってからです。

江戸時代の初めごろに、大阪近郊の河内を中心にして木綿栽培が始まりました。天然染料は絹糸にはよく染りましたが、木綿にはよく染まりません。藍染料は絹にも木綿糸によく染まりました。

そのため、木綿の織物が盛んになるにつれて藍染の、引いてはの需要も増大してゆきました。特に阿波では、蜂須賀家正入国の元和元年(1615年)に奨励作物として播磨より移植して、旧麻植郡(現吉野川市)の島に試植され、旧麻植郡を中心とした吉野川下流沿岸に広く藍作りが発達しました。藩による藍事業の保護や奨励策が行われました。吉野川の灌漑事業や生産販売統制がなされ、江戸中期には名実ともに最上級品の産地となりました。

明治時代に入りますと、藍の成金が各所に出来、今もその面影を残す家屋が吉野川下流域にあり、有形文化財として保存されています。明治の中頃には、インド藍の輸入や、明治の末には合成藍の工業生産が始まり、阿波藍の生産は急激に衰退してしまいました。

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March 21, 2019

過酸化水素を使った楮の蒸解と漂白

<蒸解と漂白が同時に出来ないかと言う幼稚な疑問>
紙漉きを始めて間もなくの1974年ごろ、好奇心が旺盛だったのか,無鉄砲だったのか、ある時楮原料の蒸解と漂白が同時に出来ないかと言う疑問を持った。それも当地は同業者も無く知識を得るのは紙関係の書物しかなかった。出張の折には古本屋周りをして紙関係の書籍を買いあさったものである。その書物の中に塩素でなく、過酸化水素を使った漂白処理の方法が記載されていた。多分,当時としても新しい方法であったかと今になって思う。早速出入りの薬品業者より過酸化水素を購入し、テストを始めた。そのような書籍に書かれているのは概略であって、現場での使用方法までは詳しくは書かれていない。ニューヨークへ行くのに,中学時代に使った世界地図を持ち出して見ているようなものである。案の定、蒸解中の釜の中に過酸化水素を入れると急激な反応を起こし、半分近くの蒸解液が溢れ出したことを思い起こす。大失敗だったと言う意識よりも、周りの好奇心に答えることの出来なかった気恥ずかしさが先に立ち、この試みはこれで蓋がされた。

<酸素アルカリ蒸解の技術供与(環境問題)>
25年前の大失敗を思い起こしたのが、環境問題であった。楮の蒸解液は、戦時中には洗濯するのに石鹸変わりに使っていた、豆炭の接着剤として混ぜていた,田んぼに入れると除草剤変わりになり、土壌の酸性化を押さえるなど言われ重宝がられていたと聞いているが、時代の変遷にはそのようなことも言っていられなくなった。人件費の問題も含めて海外で原料を調達するなどの試みをしてきたが、どうしても解決せずには逃れることの出来ない問題として浮上してきた。靱皮繊維は蒸解処理をすると、排アルカリ(苛性ソーダーなどの残留アルカリ)、色素(黒褐色の排液)とCOD(残留酸素要求度)の問題に行き当たる。そこで思い当たったのが徳島市内で工業用特殊紙を製造している阿波製紙株式会社で、リンター処理に用いられている加圧酸素アルカリ蒸解法である。リンターを楮に置き換えて処理が出来ないかとの問いに、前真鍋工場長は快く相談に乗ってくれた。基礎データ―作りには、四国工業技術院のxxxxさんと観音寺のxxxxxの協力を得て、また、実機設計にあたり阿波製紙(株)研究室の浜課長の指導と研究室で数回の蒸解試験を1年余り繰り返し、1997年に山川町三椏楮生産組合に設置,稼動している(写真1)。紙面の都合でフロー等は割愛するが、当装置で蒸解処理された排液の状態を別紙(表1)に記す。
<言うよりも産むがやすし、瓢箪から駒、必要は発明の母>
前述の加圧酸素アルカリ蒸解法の基礎データ―作りの過程で、過酸化水素を使用してはとの提案も出て来た。ご存知のように過酸化水素は反応して水と酸素になる。何度か蒸解試験をしたが、圧力釜での試験では、過酸化水素の反応が非常に不安定で、圧力のコントロールが非常に難しく、それをコントロールしようとすると我々の管理能力以上の知識と設備が必要となり、実用的でないとの理由で断念した。只、日本パーオキサイド株式会社研究室のxxxx氏の指導では、全く不可能ではないとの感触を得て継続試験することになった。通常の過酸化水素を用いた漂白方法は、3%前後のアルカリと安定剤に過酸化水素を加える。漂白用にアルカリを使うのであればこのアルカリを蒸解用に利用できるのではないか。アルカリを加えるのであれば蒸解が出来ないわけが無いと言う単純な発想から始まった。このような考えが前提にあり、蒸解と漂白工程をどのように一緒にするかを検討中に、現場担当者はこの漂白の処方で蒸解をしてしまった。結果は,とんでもないことが起こったと言うか、当たり前のことであるが蒸解液が黒くない。白濁した液体と白く漂白された楮の繊維がある。目の前に見せ付けられて、眼から鱗が落ちたような、すばらしい大発見でもしたような気持ちになった。只、3%位の苛性ソーダーでの蒸解である為にアルカリ溶出分は溶け出してなく、繊維の解離には困難で、数日すると滑りが出てくる。しかし,蒸解液は黒褐色でなく白濁している。

<過酸化水素添加>
試行錯誤の結果、蒸解と漂白は同時には出来ないと判断して、現在は表2のような工程で処理をしている。また、COD値は図2まで落ちると希釈することで充分処理ができる。また、排アルカリは硫酸で中和処理をしPH8以下になるように処理をしている。
この処理方法で漉きあげて紙は、多少固めに上がるようである。と言うことは,歩留まりがよいと考えられる。まだ,紙の物性試験まで出来ていないが、我々は悪くわないとの判断をしている。
次亜塩素酸ソーダーによる漂白はダイオキシンの問題があり、蒸解からは黒液に含まれる色素,COD値を高める靱皮繊維からの溶出物質、蒸解時に使用する残留アルカリ、どれを取っても多量に排出すると環境に負担をかける。紙屋とは因果な仕事である。しかし、過酸化水素を添加することによりどれもが解決をする。酸素が生物の営みに重要な役割を果たしているとは知っていたが、このような形で仕事に関わってくるとは考えもしなかった。
楮,三椏,雁皮、麻などの和紙に使われる植物繊維は、ケナフ等と同様に環境、地球にやさしい紙用素材です。製造工程に過酸化水素を用いることにより一層やさしさを増しました。

<お礼>
今回の酸素アルカリ蒸解、過酸化水素漂白に関して多くの方々の無形のご援助をいただきました。文中で敬意を表しますと共に、常に先駆的指導をしていただいています徳島県商工政策課の野々村俊夫氏、漂白が燃焼だと教えていただいた三菱化学のxxxxさんに末尾ながらお礼申し上げます。また、蒸解試験は当社大野XXX,資料収集には藤野XXXがチャレンジ精神で当たりました。
まだ、このプロセスは完成されたものとは考えていません。もし、ご興味のある方がおいででしたら、貴地まで出向き、一緒に研究をしたいと考えています。ご連絡を下さい。


本稿は季刊和紙用に作成された元原稿です。詳しくは、季刊和紙をご覧ください。

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October 08, 2018

ウィーン万国博覧会と小杉文庫

 明治期の忌部族の顛末を調べている内に、国立国会図書館の蔵書に小杉文庫があるのを知った。小杉文庫は阿波蜂須賀藩の国学者小杉榲邨の蔵書で、大正期初期に散逸を憂いて帝国図書館において収集された。神祇関係・美術工芸関係・史学・文学関係などの調査書類や古典籍、または古文書・古記録の写本などが数多く残されている。当然、小杉文庫の特徴は、「阿波国文庫」が多いのであるが、興味深いのは「ウィーン万国博覧会関 係資料が含まれている」ことであった。その文庫の中に「造紙説」という上下巻を発見した。この造紙説は「博覧会事務局」用箋を使った、手書きの写本版で有る。小杉が帝室博物館に勤務した時期に入手したと考えられるウィーン万国博覧会関係資料の一部である。

読み進めているうちに下巻に「阿波國 雁皮紙製造の発端」と言う一節を発見した。

文化3年(1806)小原俊造なるものが、川田村の住民高尾熊七に伝授し、その孫浅次は精励努力したと記されている。また、色は浅赤、浅青、浅黄、浅緑、純白の五色である。浅赤は礬紅(ばんこう、弁柄)、浅青は藍染紙を漉き直す、浅黄は黄檗、浅緑は紺紙と黄檗で彩色するとある。後に、染色の方法、漉き方法、用具の説明と雁皮の枝、皮などを含めた用具類の詳細図が掲載されている。これらは明治政府が明治51月に博覧会事務局を設置し、地方から出品する出品物を選定する際の取り扱い心得に法って記されている。

造紙説 博覧会事務局編 国立国会図書館蔵
 

 

原田家(吉野川市山川町川東)には、明治初期の博覧会への出展が如何に盛大に行われたかを表す記念碑的なメダルと感謝状が残っている。借用して精査すると三回の博覧会への出展が記録されている。特筆することは、その当時の造紙が保管されていることであった。ウィーン万博に出展されたであろう「阿波國 雁皮紙製造の発端」の流れを汲むであろう四色の雁皮紙が保管されている(浅黄は見当たらなかった)。他にも、透かし入りの典具帳紙が内国勧業博覧会賞状と共に十数枚保管されており、当時の技術水準の高さを今に残すものである。

小杉 榲邨(こすぎ すぎむら、天保5年12月30日1835年1月28日) - 明治43年(1910年3月29日)は、国学者阿波国(現徳島県)出身。徳島藩陪臣蜂須賀家中老西尾志摩の家臣[1])の子として生まれる。通称は五郎、号は杉園(さんえん)。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に師事。安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野小中村清矩と交わった。文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。

廃藩ののち、名東県に出任した。明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として『古事類苑』の編集に従った。明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事した。

明治32年(1899年)、東京美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある。

明治40年(1907年)、『源氏物語』の写本のひとつである大沢本を鑑定した(「鑑定筆記」)。明治43年(1910年)、食道癌のため死去[2]。(Wikipedia)

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August 03, 2018

サイズとはー滲み止め(内添サイズ)

紙に使われる繊維は柔軟で、シートを構成した場合には繊維間は多孔質で吸水性に富んでいます。特に筆記用紙に使う場合には水性インキは滲み、毛羽立ちをするので筆記特性はよくありません。また、印刷にしても耐水性を付与したり、また毛羽立ちをしないようにする必要があります。書写に適した紙にするためには、吸水性があってかつ適度に撥水性もある物質を紙に塗って、表面にインクがにじんでしまうのを防がなければなりません。

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膠と明礬(AlK(SO4)2・12H2O)

膠は接着剤として古代エジプトの時代から使われてきました。純度の高いものをゼラチン、低いものを膠と言っています。膠(ゼラチン)のコロイド水溶液に熱を加えることによりゾル化して溶液になり、冷却することによりゲル化して固化する性質を持っています。ドーサ引きの手法は、紙に用いられるより先んじて、建築の下地作りに用いられてきました。神社仏閣などの建造物に彩色をする場合に木地にドーサ引きをし、胡粉を塗り下地にします。その上に顔料で彩色を施します。この方法がいつ頃何処で始まったのか知見はありませんが、日本画でも同じような手法で描かれています。枠に絹を貼り、ドーサ液を両面に塗ります。その後胡粉を塗って画材の仕上げになります。

ドーサ引きにおける膠と明礬の役割は、膠はその接着剤として繊維間の結合を助け、紙に腰と表面強度を付与します。膠だけだと、如何に固化した膠であれども、水に触れると溶質し始めます。これは利点でもあり、欠点でもあります。明礬は、殺菌作用と共にタンパク質を収斂する作用があり、滲み止めの効果と膠を不溶性にする役割があります。

紙の場合、明礬に含まれるアルミニウムが膠と反応する事により、硫酸根が乾燥後の紙の中に残り、大気中などの水分と反応して紙が酸性になります。ドーサ引きには酸は必要なく副産物として生成されるのであるからして、それを防止するために原紙をアルカリ性にして中和すると言う方法も考えられます。伝統的な手漉和紙の製法はアルカリ状態で工程を進めます。それをより意識した状態で紙漉を進めれば、紙が中性域で保存され、酸性化の影響を最小にすることが出来るのではないかと考えます。

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